夏の風物詩、「冷やし中華」。ある年は全く食べないときもあったが、近年は私はよく食べる。
もともと好きな料理ではあるが、出自など謎も多く、調べてみた結果もなんだかはっきりせずもやっとした感じだったのが、ようやくまとまったので書いてみることにする。
まず、ここで書くものはいわゆる「定番の冷やし中華」に限定する。
つまり、上記の写真のようなもので、タレは酢醤油のものとする。冷やし中華の話がわかりにくくなるのは、「冷やしラーメン」など類似のものが多数あるため、話が膨らみすぎてしまうためだと判断したためである。「定番冷やし中華」であれば、話は簡潔になる。
まず、これがいつどこでできたのかについて。
「冷やし中華」は日本でできた麺料理である。
東京都千代田区神田神保町の「揚子江菜館」という中華料理店において第二次世界大戦後、または1933年(昭和8年)に創作されたといわれている。
2代目オーナーの「周子儀」が、上海で食べられていた「もやしと細切りの肉を冷した麺に乗せて食べる涼拌麺」と「ざるそば」からヒントを得て作ったと言われている。
また、「なぜ冷やし中華の具は麺の上に放射状に乗せるのだろう?」というのが長年の疑問であったが、これは「雪が降った富士山」をイメージしているのだそうだ。
このような「風景を料理に活かす」という手法は日本料理においてはよく見られ、寿司の盛り込みの技術などにもある。
そして、「涼拌麺」というのはどういう料理かといえば、「もやしと細切りの肉を冷やした麺に乗せて食べる麺料理」と上に書いてあるまんまなのだが、読み方はといえば、「リャンパンメン」となる。つまり「涼拌麺」である。これは中華料理の麺料理である。
「冷やし中華の原型は涼拌麺か?」という議題については、Wikipediaにおいては「(冷やし中華は)味も作り方も大きく異なるものであるため、一般的には日本発祥の料理とみられている」と説明されている。
「揚子江菜館」とはどういう中華料理店だったのか。
それについては下記記事に詳しい。
ざっくりと上記記事からまとめると、「揚子江菜館」は明治39年(1906年)西神田で創業し、神田に現存する中華料理店としては最古の店である。初代が「周所橋」であり、二代目が「周子儀」(明治43年[1910]生~昭和58年[1983]没)である。また、「ざるそばからヒントを得た」と上記にあるのだが、その店名まで書いてある。「2代目は神田連雀町の「まつや」の蕎麦が大好きでしたので「中華そば」で「ざる蕎麦」みたいな料理を、という発想で考案しました」とのことである。
なお、当代は4代目にあたり、「沈松偉」さん、とのことである。
なお、「美味しんぼ(8巻)」において「究極の冷やし中華」を作った際に疑問に思ったことがある。
山岡さんは、確か有機飼育の鶏からダシをとっていたのだが、あのダシは何に使ったのだろうか?
普通冷やし中華のタレは「酢と醤油」であり、鶏のダシは使えない。使うと脂が固まるからである。
「冷やしラーメン」においては、冷やして固まった脂を取り除き、脂を除いたことで薄れたコクを補う意味で植物油を足す、ということになっているが、上記の「究極の冷やし中華」の回においてはそのような描写がなかったのである。
となると、「麺は冷たいが熱いスープ」だったのだろうか? どうもあの絵面から感じる「味」が私にはわからないのである。
・・と書いていたら、ちょうど原作があったのでそれを見ると、「スープ」となっており、材料は「鶏のダシ、みりん、醤油、酒、浙江省の酢」となっている。だが、やはり「スープを冷やす」という描写がない。やはり「冷たい麺を熱いスープで」ということなのでは・・・と思っていたら、その後で「冷たい麺を冷たいスープで食べる」と本人が言っているので、単に「スープを冷ます」という描写がなかっただけかもしれない。実は脂も取り除いたのかもしれない。ここが少し「もやっと」するのである。
参考資料:Wikipedia「冷やし中華」、KANDAアーカイブ、ヤマサ醤油のレシピサイト、「美味しんぼ」(雁屋哲・花咲アキラ 著:小学館)
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