カップヌードル開発話

食べ物

NHKの朝ドラ『まんぷく』で、安藤百福の話をやったため、これは書かなくてもいいだろうと思ったのだが、当然ドラマを見ていない人もいるだろう、ということで書いてみることにする。

安藤百福ももふくは日清食品の創業者で、「チキンラーメン」で初めて「即席麺」というものを発明した人である(昭和33年)。「チキンラーメン」の開発話もまた面白いのだが、今回はその後の「カップヌードル」について書く。

チキンラーメンを開発後、次々と同業者が増え、一時期は日本だけで即席麺を作る会社が360社にもなったという。完全な過当競争である。

安藤は販路を求めて昭和41年、渡米する。

ところが、プレゼンテーションの場で困ったことが起きた。アメリカには「どんぶり(のような容器)」がなかったのだ。今だったら「気づかないの?」というツッコミがありそうだが、今ほど海外の情報がない時代である。本当に気が付かなかったのだろう。パスタはあるが、せいぜい深皿程度で、考えてみたら西洋文明には「どんぶり」的な食器はない。かろうじて「ボウル」はあるが、あれは調理のときに使うもので、それで食事をする道具ではない。

そのプレゼンテーションの場で、困った記者が、紙コップにチキンラーメンを割り入れてお湯を注いで食べたのが「カップヌードル」着想のヒントとも言われている。

帰国した安藤は昭和45年(1970年)プロジェクト・チームを立ち上げる。新商品の開発である。

条件は、

  1. 容器に入っているラーメンであること
  2. お湯さえあれば食べられること
  3. 3分で食べられること
  4. 歩きながらでも食べられること

簡単に書くとこんな感じなのだが、これが存外難しい。

まずは容器の開発から始まったが、「手の小さい人でも食べられるものである必要がある」という条件も入り、その結果現在のような逆円錐形に落ち着いた。さらには「容器の口をつける部分に厚みがほしい」などの要望が入り、実際に容器の縁は厚みを増したものになった。

さらに「お湯を入れて3分で食べられる」ためには、断熱材である必要もあることから、「発泡スチロール」を材質として採用した。その後ダイオキシン問題が出たため、現在では環境保護の観点から発泡ポリエチレン断熱皮膜加工の紙製カップ(通称・エコカップ)へ切り替わっている。

麺はカップの中空にぶら下がる形になっている。下にいくにつれ口径が狭くなる容器なので、麺も同様の形に作ると、自然に途中で止まるようになっている。これはショックがかかった際に、容器を守る緩衝材の役目を果たしている。麺が割れたとしても、お湯を入れてしまえば食べることについては問題ない。

具材については、成型肉、ネギ、玉子焼き、エビ、である。

このうち「玉子焼き」は長い間わからなかった。というのは、自分の知識の範囲では、玉子焼きを使ったラーメンというのを見たことがなかったからであるが、近年、「ラーメンブームを振り返って」という企画で、「ラーメン花月嵐」にて、「初期のラーメンを復刻する」というのがあり、その説明に「初期のラーメンには玉子焼きが入っているのが普通であった」という説明があり、実際に食べて納得した。

さらに「お湯をかけると3分で食べられる」という要望を満たすためには、乾燥食品ではダメだった。3分では時間がなさすぎて戻らないのだ。ということで、まだできたばかりの新技術「凍結乾燥法(フリーズドライ製法)」を使うことになったのだが、当時はまだフリーズドライの設備は大学の研究室にしかない、という代物だった。日本に「フリーズドライ製法」が広まったのは、「さけ茶漬け(永谷園・1970年)」「カップヌードル(日清食品・1971年)」の影響である。

最後に残ったのは「エビ」。私はエビを具として使ったラーメンというものも知らないので、全く理由がわからなかったのだが、安藤氏が強く要望したそうである。「あの赤い色があるだけでめでたい気持ちになれるので、是非エビがほしい」と。

そのためいろいろなエビをフリーズドライ機にかけてみるのだが、全部どす黒く変色してしまうのだ。これには困ってしまった。しかし安藤氏の「世界にエビが2500種類もいるのなら、まだ研究の途中ではないか」という言葉によって、「黒くならないエビ探し」が始まった。

もうこうなると「片っ端から試して黒くなったら別のエビを」という話になってしまって、「うまいかうまくないか」はどうでもよくなっている感があるが、とりあえずそういう話の流れで「珍しいエビがある」という話を聞きつけ、大野研究員がそのエビを入手した。それはインド洋でとれる「プーバラン種」というエビで、当時高価なエビである(当時の原価:1kgあたり4,500円)。これが、変色しなかった。赤い色を保ったままだったのだ。ということで、このエビを採用することにする。現在でもこの「プーバラン・エビ」はカップ・ヌードルの具材になっている。

当初発売したてのころはほとんど売れず、夜勤の多い機動隊員、警察、消防隊員などに売れたそうである。

その後、銀座の歩行者天国で大々的な宣伝販売を行い、4時間で2万食を販売する。当時はプラスチック製のフォークが付属していたが、これは安藤の「どこででも食べられる」という理想に追随したものと思われる(なお現在ではこのフォークはない)。

発売翌年(1972年)、有名な「あさま山荘事件」が起きて、事件の様子がテレビ中継されたが、その際、カップ・ヌードルを食べている機動隊員が映り、それで全国的に知名度が上がったとのことである。

茨木の食品工場に23万食のカップ麺が保管されており、大災害が起きたときに関東一円から209万食が緊急搬送されることになっている。有珠山噴火のときには3万食が配られ、阪神・淡路大震災の折には162万食が配られた。海外での災害に関しても日本からの救援物資として送られ続けている。

「栄養が~」という意見もありそうだが、人間、一番苦しい死に方は「餓死」だそうである。

安藤氏の「食足りて世はたいらか」という有名な言葉があるが、彼は世界から「飢え」を減らすことに貢献した、人類史に残るくらいの偉業を成し遂げたと、個人的には評価したい。


参考資料:プロジェクトX「82億食の奇跡」NHKプロジェクトX制作班:原作・監修 加藤唯史:作画・脚本、Wikipedia

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