ラマヌジャンについて2

数学
画像はWikipediaより引用。パブリック・ドメイン

以前、ラマヌジャンについて書いたことがあったが、そのときから違和感はあった。

「幼少期から神童と呼ばれ」、さらにジョージ・カーの著した「純粋数学要覧」という本の定理や公式を「かたっぱしから証明し」と書かれているのにも関わらず、

別のところでは「定理の証明という概念すら持っていなかった」とちぐはぐなことが書かれていたりする。また「神童」と呼ばれていたのにも関わらず、大学は授業についていけずに中退している。

ラマヌジャンについて正確に知るには、ネット情報だけではどうもあちこちがおかしい。一枚の絵に見えてこない。

そう考えて買った本がこれ。

この本では、ニュートン、ハミルトン、ラマヌジャンと三人の数学者についてその生涯を追っているのだが、ニュートン、ハミルトンをあわせても全体の半分以下の分量で、全体の62%をラマヌジャンの話が占めている。

・・のだが、冒頭の「ニュートン編」を読んだだけで止まってしまっていた。最近ようやく全部読み終えて、ラマヌジャンの謎も多少理解できたため、再び書いてみようと思う。

ラマヌジャンが幼少期から頭がよく、100点満点ばかりをとって「神童」と言われたというのは本当のことだった。とはいえ南インドのことであるから、我々がイメージする「神童」かどうかは疑わしい。

10歳のとき、家に下宿していた二人の大学生に数学を少し教わったようだ。あっという間に理解して、大学の図書館から三角法や微積分に関する本を借りてこさせ、これらもすぐにマスターした。

12歳のときには、その大学生に逆に教えるようになっていたという。

15歳のときに、ジョージ・カーの「純粋数学要覧」に出会い、これで人生が変わってしまう。「心は孤独な数学者」によれば「無名の数学者」であるジョージ・カーによって著された、「トライポス」(ケンブリッジ大学卒業試験)受験生のための手引書であり、大学初年級までに習う6千余りの公式や定理が、ほとんど証明なしに並べられている。おそらくは「暗記のための書」だったのだろうと私は思う。

受験に際し「化学式一覧」などを持ち歩いて、時間ができたときに開いてその都度暗記する、そのような本ではないだろうか。

藤原氏曰く「学問的には無価値の書」であるが、ラマヌジャンはこれにハマってしまい、定理を次々と証明していった。ただし、このカーの本には、

(証明の)方法論が何も示されていないため、ラマヌジャンは独自の方法を編み出していった。

↑ここがポイントになるのだと思う。

そしてその過程で次々と新しい定理や公式を発見していった。

後年、ハーディ教授に才能を見いだされたときでさえ、ハーディは「早く証明をよこしなさい!」と何度も手紙で催促するが、ラマヌジャンにとっては「何をいっているのかわからない」という状態であったという。

少し話を戻して、「純粋数学要覧」と出会ってしまったラマヌジャンはそれまでの高校時代の目覚ましい成績のおかげでクンバコナム州立大学へ奨学生として入学するが、数学以外への関心を失ってしまった彼は、全ての授業が上の空であり、片端から落第点をとる。まもなく奨学金はとめられ、一年で退学処分になる。

それほど数学にのめり込んでいたなら、別に悩みもなかったのではないかと思いきや、そんなことはなかった。

「たった一年で大学をクビ」という事実は激しいコンプレックスとなり家出してしまう。

そして、別の大学へ奨学生として入り込もうと画策するがうまくいかず、一ヶ月あまりの家出を経てようやく帰宅する。

大学をクビになったことで大いに自尊心が傷つけられたラマヌジャンは、「FA試験」(短大卒業レベルの試験)に合格しようと画策する。この試験は難関で知られていたため、その準備として「パチャイアパズ大学」というところに奨学金付きで入ろうとして、ようやく再び大学に入学する(「大学に入れたのならもうよいではないか」と思ったのだが、文脈からして「パチャイアパズ大学」は「FA試験」よりもレベルが低かったのだろうと推察される)。ところが、やはり数学への熱狂が災いし、数学では満点をとったものの、その年も翌年も「FA試験」に落第する。「FA資格」を取ることはできなかったのだ。

ラマヌジャンは19歳になっていた。

深い失望の中で実家へ帰ることになった。実家は貧しく、その日の食べ物にも事欠く有様なのに、ラマヌジャンという食べ物を減らす人物が戻ってきてしまったのだ。

家計の足しになるよう、家庭教師も始めたが、こちらもうまくいかなかった。試験対策を離れてすぐ数学の方向に進もうとするので、次々にクビになってしまう。

結局16歳~22歳までブラブラして過ごし、前途に何の光明も見えなかったという。

後世、自分の名が歴史に残ることになるなどと、誰が思うだろうか。

彼は石版を使って計算した。この石版というのは、小型の黒板のようなもので、書いたものを消すには通常、布を使うのだが、「布を探す手間が惜しい」ということで、彼は肘で消していたという。

このあと、港湾事務所に職を得て、さらにハーディ教授との出会いもあるわけだが、ハーディおよびリトルウッド、この二人だけがラマヌジャンの才能に気がついたらしく、ほとんどは「まともな証明がない」という理由で門前払いだった。

ラマヌジャンはそもそも「証明」というものを知らなかった。

高校時代に習い覚えた三角法、および微積分、そのくらいの知識しかなく、あとは大体独学であったため、正式な証明の手順も知らなかった。

では一体彼はどうやって「この式が正しい」というのを知った(思った)のか?

彼が「証明」ということについてどう思っていたか、は藤原氏の著書のこの部分がもっともよく現している。

深い洞察力に支えられた成立理由があり、いくつかの数値を実際に入れても成立しているなら、それでよい

と考えていたらしい。

それが「証明」とは噴飯ものであるが、逆にラマヌジャンがもし「全てを証明しつつ先に進む」という方法をとっていたら、数学の発展は100年遅れていた。

実際に「ラマヌジャン・ノート」の全証明が終わったのが2018年、ラマヌジャンが亡くなったのが1920年のことであるからだ。

また、ネットの検索ではほぼ見当たらない興味深い情報があった。

ラマヌジャンは生前、「ナーマギリ女神が寝ている間に公式を教えてくれる。それを舌の上に書くんだ」といっていたそうだが、

ラマヌジャン、およびその母のコーラマタンマル、及びその母(ラマヌジャンの祖母)は三代に渡って、予知能力的なものをもっていたらしい。

それを裏付ける証拠もいくつかある。

まず、ラマヌジャン当人のことについては、カースト制度においては、バラモンであるラマヌジャンは本来「海外に行くことは禁止」であったそうだ。

しかし、ハーディ教授に見いだされ、周囲の応援もある。どうにも自分の考えだけでは決めかねる。そこでラマヌジャンは、友人であるナラヤマ・イーナーとともに、ナーマッカルの寺院にて寺院の床に寝て、「啓示」が得られるまで何晩でも過ごそう、と思い定める。

すると三日目に夢の中でまばゆい光を見て、「戒律を犯して海を渡れ」という啓示だと解釈する。

ラマヌジャンは夢判断の専門家でもあった。

母のコーラマタンマルについてはこういう話が残っている。

結婚して何年も子供がなかったコーラマタンマルはナーマギリ女神に必死の祈りをかけた。すると、一種のトランス状態となり、ナーマギリ女神がこういうのを彼女は聞いた。

コーラマタンマルは子供を生み、その第一子は余によって特別に祝福されるであろう

と。

また、

ラマヌジャンとその母コーラマタンマルは、しばしば正しい予知をして人々を驚かせた。

ともある。祖母の例としては、「近所の魔術による殺人」を夢に現れたナーマギリ女神から知らされ、狙われた人物の家に行き、ナーマギリ女神の指示に従い、裏庭深く埋められたまじないの卵を見つけ出した。この卵をカーヴェリ河に捨てたところ、事件は起きなかったという。

こうした「科学とは一見相容れないエピソード」を読んでいくと、

やはりラマヌジャンは、

どちらかといえば予知能力者、予言者

だったのではないか、という思いを強くする。

着想だけで次々と定理や公式を生み出し、ハーディがそれを証明し論文の形に整える、というコンビはうまくいき、多数の論文が発表されたが、

やはり「ヒンドゥーの教え」がラマヌジャンを縛った。

「他の階級のものとは手を触れてもいけない」という教えだったり、あるいは「揚げ物はラードを使うからよくない」であるとか、そういったもののために、彼は友人を作ることもできず、ひたすら飢えていった。

ライスに塩とレモンのみ、という食事をしていたこともあったようである。

そのうちに病気になった。いろいろな病名をつけられたが(胃潰瘍、敗血症、癌、結核など)、結核の疑いが強かった。しかし彼は栄養をとろうとしない。ここでも戒律によって菜食にこだわり続けた。

この病気をしていた時期、彼は自分の人生を「敗北」と決めつけ、発作的にロンドンの地下鉄で自殺を図るが、奇跡的にあと数十センチのところで電車が急停車し、生き延びる。

その後、大戦終結を待って1919年にインドに帰国する。

病気であり、イギリスを離れたにも関わらず、この時期ラマヌジャンは最後の輝きを見せ、600を超える数式を生み出した。

しかし病気からは回復することなく、1920年に32歳で没す。

死の4日前まで石版に何かを書いていたとのことである。

こうやってみてみると、ラマヌジャンが「自分の人生はダメだ」と思ったことは、「17歳に大学をクビになったとき」、および「渡英した後に病気になってから」の2回ある。

後世の評価とは裏腹に、全く幸せとは言い難い人生を送った、という点ではゴッホにも通ずるものがあるように思える。

あくまで私見であるが、ラマヌジャンが発見した多数の公式、定理は、

予知能力と数学能力

が合わさった結果ではないだろうか、と思う。

この「予知能力」というものはどうも、いろいろ本を読んでみるに、本人にその素養がないもの、に関してはうまく当てられないようなのだ。ぼんやりとしかわからない、というか。

そのため、高卒程度の学力しかなかったラマヌジャンがこれほどの偉業を成した、というのは、論理的に考えるべきではない、と思う。むしろ一見関係ない「予知能力」「千里眼」などからのアプローチをすることで実像に迫れるのかもしれない。

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